護りたいものがあったから。
ティルとフェイ達が再会した次の日に、フェイ達はティントに向かって出発した。
その翌日にはジェスが軍を率いてティントを発ったという情報が流れた。
さらにその翌日、ティントはネクロードに襲われ占拠された。
フェイ達は何とかゾンビを倒しながらティントから脱出し、新たにカーンを引き連れて虎口の村まで戻ってきた。しかし、その中にいたフェイの顔は真っ青で、今にも倒れてしまいそうだった。
ティントが襲撃されたことを聞き、虎口の村でフェイ達を待っていたティルとイリスは、そんなフェイに駆け寄った。
「ティルさん・・・フェイが、・・・フェイが・・・!」
「大丈夫・・・多分魔力の使いすぎだと思う・・・」
今にも倒れてしまいそうなフェイを支えてナナミが声を荒げる。
ティルは微笑み、ナナミを宥める。その隣でイリスが右手に宿した流水の紋章を使ってその場にいた全員を癒していく。
ティルはフェイの右手を自分の右手の甲に置き、フェイの手の甲に額を近づける。
―――・・・暴走、か・・・
元々フェイの宿す『輝く盾の紋章』は『始まりの紋章』の片割れだ。半分しかない紋章はその分不安定になりやすい。恐らく欠けたもう半分を求めて暴走を始めたのだろう。
ティルは溜めた息を深く吐き出し、瞳を閉じて右手に意識を集中させる。
包帯の下からでもはっきり解るほど赤く輝く光を見て、シーナとビクトールが驚いて目を見開く。
ティルを止めようとして駆け出そうとしたところを、イリスに止められる。
ティルの右手に宿る死神、『生と死の紋章』はその名の通り、宿した者の近しい魂を奪っていく。
それは四年、解放戦争の時代にティルの大切な者の魂を四つも奪っていった事からも、その名がただの虚言でないことは解る。
だからこそ周りはその紋章を恐れ、ティル自身もあまり使おうとはしなかった。
それを、体調の芳しくないフェイに使っている。
紋章の力をよく知っているシーナとビクトールは、ティルの紋章がフェイの魂を奪っていってしまうのではないかと思ったのだろう。
けれど、そんな二人の思惑とは反対に、フェイの顔色はどんどん良くなっていった。
フェイの持つ紋章は名前の通り『光』に属する紋章。そして探し求めていた紋章は『黒き刃の紋章』―――『闇』に属する紋章だ。
紋章が『闇』を求めて暴走を始めたのなら、『闇』の力を与えれば良いだけのこと。
『闇』に属する紋章としてはトップクラスの力を持つソウルイーターならば、充分その条件に見合っている。
だからティルはソウルイーターの『闇』の力に自分の魔力を織り交ぜて、フェイの紋章に注ぎ込んだのだ。
こうすれば紋章の暴走も抑えられる上、フェイに魔力を分け与えることが出来る。
そう考えたのだ。
フェイはその光景をぼうっと見つめながらも、自分の中の何かが少しずつ満たされていくのを感じていた。
ティルがフェイの手を離したときにはフェイの顔色は良くなり、自分の足でしっかりと立てるようになっていた。
「・・・・・・どう?」
「あ、・・・もう大丈夫です。頭もふらふらしないし、気分が良いです。何か・・・満たされたような気がします」
「そう、なら暫くは大丈夫だろうけど・・・また同じように気分が悪くなったら直ぐに言って」
そう言って穏やかにティルは微笑んだ。けれど、ルックはその時ティルの左手が右手を―――右手の甲を、強く握りしめていたことを見逃さなかった。
眉を細めながら、じっとその手を見つめていた。
「―――ティル、そ奴らかぇ?」
突如後ろから掛かってきた声にティル達が振り向くと、そこには一人の少女がいた。
銀の髪に、透き通るような白い肌。蒼い瞳は月に照らされた夜を思わせる。
その少女はふぁ、と眠そうに欠伸を一つ付いてティルの側まで来ると、ティルの目の前にいたフェイを見定めるかのように目を細めて、頭からじっと見つめる。
そしてその視線がフェイの右手に移ったとき、少女の眉が寄せられた。
「・・・なるほど、そなたが『フェイ』かぇ?」
「え?」
「そうだよ、シエラ。彼が―――同盟軍軍主、フェイマオだ」
少女―――シエラの行為に目を丸くしていたフェイは突然の質問に直ぐに言葉を返すことが出来ず、代わりにティルが答える。
そのティルの答えを受けてシエラはフェイの前の前に立つ。
「・・・ネクロードと戦う気かぇ?」
「・・・・・・勿論です。ティントをあのままにしておけませんから」
シエラにはっきりと言葉を返したフェイの顔は、三日前にここを発ったときとは違った。
そのフェイの顔を見て、ティルはほっとしたように顔を緩める。
この短い期間の間に、フェイは究極の選択を迫られたはずなのだ。
けれど、フェイの瞳に迷いなど存在していない。それどころか新たに決心したような、しっかりとした顔つきになっている。
シエラもそれに気づき、フェイの言葉に満足そうに笑みを浮かべる。
「シエラ様」
「・・・マリー家の倅か」
「はい、ティントでネクロードの力を見定めてきました。・・・これ以上、のさばらせておく訳にはいきません」
「・・・わらわに力を貸せ、と?」
カーンの言葉に、シエラが瞳を細める。
シエラがカーンから視線をそらし、またフェイを見つめると、フェイも真っ直ぐにシエラを見つめていた。
似ている、と。
この者の瞳は、ティルによく似ていると。
強い意志を持っている瞳だと。
シエラはそう感じて、一度視線をティルに移してからもう一度フェイを見つめて満足そうに笑みを浮かべる。
「・・・確かにあやつの持っている『月の紋章』はもともとはわらわ物じゃ。わらわの力を持ってすれば、あやつを倒すことは簡単であろう」
シエラに、全員の視線が集まる。
けれどシエラはそれを感じていながらも笑みを崩すことはない。
「・・・わらわの力が必要だというのなら、おんしらの力を試させてもらう。―――わらわが、力を貸すのにふさわしいかどうか・・・この目で見定めてやろう」
そう言ったと同時に、シエラの右手に宿った雷鳴の紋章が輝きを放つ。
それと同時に閃光が走り、フェイ達の足下に雷が落ちる。
ティルとイリスはその光を避け、フェイ達とシエラから距離を置く。巻き込まれたらたまったものじゃない。
激しい雷鳴。それが戦闘開始の合図だった。
イリスのお陰で癒えた身体は軽く、次々に繰り出される雷を避けていく。
しかしフェイ達の攻撃もシエラは白蝙蝠へと姿を変えることによって、軽々と避けてしまう。
「そんな攻撃じゃ、わらわに傷を付けることは出来ぬぞぇ?」
まるで戯れているかのように、シエラは嗤う。
そんなシエラに、フェイがトンファーを突きつけようとするが、それも容易く避けられてしまう。
けれど。
「―――・・・っ切り裂き!」
フェイを目隠しとして、ルックの杖から放たれた風が、シエラに襲いかかる。
シエラは目を丸くしてそれを避けようとしたが間に合わず、左腕に風の刃を受けてしまう。
そうして出来た隙を、今度はシーナの剣が振りかざされる。
それを辛うじて避けると、今度待っていたのはビクトールの一撃。
シエラは小さく舌打ちして蝙蝠へと変化し、それを避け、少し離れたところで戻る。
戻ると同時に小さく何かを呟き、手を翳す。するとシエラの方に駆け出そうとしていた者達の下に雷が降り注ぎ、足止めする。
それと同時に投げた刃が一番近くにいたナナミの足を傷つけて戻ってくる。
またしても襲いかかってくる刃を、小柄な体躯を活かして最小限の動きだけで避ける。そうすることによって後ろに控えているルックからの紋章攻撃を防いだ。
風の紋章は攻撃範囲が広い分、側に味方がいれば味方まで傷つけてしまう可能性がある。それを考慮した上での作戦だ。
避けている最中でも右手に集中することは忘れない。
淡く輝きだした雷鳴の紋章を目にして迫ってくる刃に迷いが顕れる。
それをシエラは逃さなかった。
「―――天雷!」
「守りの天蓋っ!!」
けれど、ビクトールに降り注ぐはずだったシエラの雷は、シーナの宿していた土の紋章によって阻まれてしまう。
シエラは舌打ちし、もう一度右手に集中し呪文を唱えようと口を開こうとした途端、何かがシエラの首元にあたる。
「・・・なかなかやるのぅ、おんし」
そう言って不敵な笑みを浮かべたシエラの首元にあるのは、少し大きめのトンファー。
少し視線をずらせば、シエラを睨みつけるフェイの瞳が映る。
シエラがため息を吐き出すと、右手の紋章の光が収まる。
そして首元に当てられたトンファーを除けて、フェイと向かい合う。
「仕方ない・・・約束じゃ。おんしに力を貸そう。・・・わらわとしてもあやつの行いは見過ごすわけには行かぬ」
なら初めから協力してあげれば良かったのに。
ティルとイリスはそう思ったけれども、けして口に出すことはなかった。
下手にシエラの怒りを買ってしまうと、後で怖い目に遭う。
「それにしても・・・『乙女』の柔肌に傷を付けるとは・・・」
シエラのその言葉に、誰もが言葉を失う。
『乙女』と言う言葉に、誰もが反論を唱えたくなった。
八百年も生きていて、『乙女』と言えるのだろうか?
「・・・・・・何じゃ?」
「いや、何でもないよ」
何か言いたそうな視線を向けられて、明らかに不機嫌に細められた瞳に、ティルは微笑むことで機嫌を取ろうとする。
こういう時のシエラの対処法は、よく知っていた。
そんなティルに疑いの視線を向けながらも、ティルに近づいていく。
向けられる視線の意味など、解っているだろうに。
「わらわは疲れた」
「お疲れ様。宿は取ってあるから・・・―――ッ!?」
シエラはティルに寄りかかるようにして身を寄せた。
ティルはそんなシエラに慣れているのか、けして突き放そうともせず支えてやろうとして、言葉を失う。
少し開かれた襟元から入り込んだ手は冷たい。
けれど、その手の冷たさに身体を退く前に、シエラに強く首を引かれる。
そして走った痛みは、もう慣れたもの。
つぷ、という音と共に走った痛みに、ティルは眉根を寄せる。
思わずシエラから身を離そうとするのだが、シエラはその細い身体の何処にこれほどの力があるのか疑問に思ってしまうほどの強い力でティルを引き寄せ、逃がしてはくれない。
途端に襲いかかる虚脱感。
ふわふわとした感覚がティルを遅い、足下がふらつく。
事情のわからないフェイ達にとってそれは抱きしめあう恋人のよう。
シエラの頭に隠れてしまったティルの表情が見えない所為か、シエラが抱きついているように見えるのだ。
けれども、実際はそんなことは全くなくて。
「―――ッシエラ!!」
イリスが声を上げるまで続けられた行為は、シエラにとっては物足りなかったのか、顔を上げたシエラは少し機嫌が悪そうだった。
口元を濡らす緋い液体を舐め上げながら、声を荒げたイリスを睨みつける。
そんなシエラの直ぐ側で、ティルは短い呼吸を繰り返し、シエラの唇が離れていった場所を抑える。
くらり、と襲ってくる目眩を、足で踏みとどまることで耐える。
倒れはしなかったものの、ティルの顔色は芳しくなく、呼吸も荒い。
事情のわからないフェイ達でも、ティルの体調が崩されたことぐらいは解った。
「・・・何ぞえ?」
楽しみを邪魔されたシエラは、慌ててティルの方に駆け寄っていくイリスを睨みつける。
けれど、イリスだってそれで怯むほど柔ではない。
「貴方が疲れているのは解った。だったら早く宿で寝て」
「・・・まだ、足りぬ」
「毎日貴方に血を吸われているティルの身にもなってみたら?」
そのイリスの言葉に、フェイ達は目を丸くする。
先程の行為は、シエラがティルの血を吸っていたのだと気づき、ティルの顔色をうかがう。
顔色が少し青いのは、貧血だからだろうか。
血を吸われていたと言うだけでも驚きなのに、それを毎日していたと言うことに、フェイ達は驚きを隠せない。
そこで漸くシエラも吸血鬼なのだと言うことを思い出す。
「・・・わらわは疲れておるのじゃ」
「疲労回復には睡眠が一番だ。血が飲みたいというのなら他の血を飲めばいい。
そこに・・・血の多そうな人がいるだろう?」
一瞬イリスに視線を向けられたビクトールは、げっ、と顔を歪ませる。
しかし、別に血を吸われる恐れを感じる必要は何処にもなかった。
「いやじゃ。アレは不味そうだからのぅ」
即答された上、『アレ』扱いされたビクトールは少なからずショックを受ける。
それでも、血を吸われることに比べたらマシなのかも知れないけれど。
「おんしも解っておるだろうに。ティルの血は特別な物じゃ。久しぶりに巡り会えたごちそうを見逃す手はあるまいて?」
のぅ?と訊ねられて、イリスが反論しようと口を開きかける。が、ティルに止められてしまった。
ティルは未だ少しふらつく額を抑えながら、支えてくれていたイリスから離れ、しっかりと両足で立ち上がる。
心配そうに見つめるイリスに笑みを浮かべて「大丈夫だから」と答える。
「僕は大丈夫だから。・・・みんなの分の部屋は確保してあるから、早めに寝ると良い。明日からはまたティントに向かうつもりだろうし・・・フェイだって万全の状態ではないんだから、少しでも回復しておいた方が良い」
未だ青い顔色のまま言うティルに、イリスは勿論、その場にいたフェイ達も心配そうにティルを見つめる。
そんなフェイ達に「心配ないよ」とでも言うようにティルは笑みを浮かべる。
「・・・シエラ、明日はなしだから」
『何が』とティルは言わなかったが、言いたいことは解った。
本来なら決して首を縦に振らないシエラだが、ティルの顔色の悪さを見て、それ以上の我が儘を言うことはなかった。
+ + + + +
静かに閉じられた扉の外は、少し冷たい風が吹いていた。
けれど、その寒さに身を震わせることもなく、ティルは手にしていた棍を強く握りしめた。
静かな夜だった。
いくらか風が音を立てるくらいで、後は何の音もない。
元々夜遅くに家から出る者も少なかったが、今回はティントが襲われたという事実が拍車を掛けているのだろう、誰一人として外にいる者はいなかった。
それはティルにとって好都合だった。
恐らくイリスやシエラは気付いているだろうけれども、出来るだけ知られたくはない。
別にティルの行動が怪しいのではない。問題があるのは、ティルが向かう先。
今やゾンビに囲まれ、ネクロードに占領されている土地―――ティント。それがティルの目的地。
ティントの現状を、ティントに蔓延るゾンビを、ネクロードの力を、確かめる必要があった。
恐らくティントに突入することは出来ないだろう。ならば、何処かでティントへと繋がる道を探さなければならない。それも―――出来ればネクロードの力がそれほど及んでない場所。
ティルが虎口の村から出ようとしたとき、後ろから声を掛けられた。
「―――何処に、行くつもり?」
風に乗せられた声は、聞き覚えのあるもの。
先程も聞いたはずなのに、こんなに懐かしく感じるのは、何でだろうか。
ティルは一瞬瞠目して、それからゆっくりと振り返る。
揺れるオリーブグリーンの髪から覗く瞳は真っ直ぐにティルを見つめている。
寝ていたはずなのに、着ている服はいつもの法衣。
前髪に隠れそうになっているサークレットと、しっかり握りしめられた杖。
いつもと変わらない―――戦闘用の、姿。
何処に行くのかと聞いておいて、彼はティルが何処に行くのか知っているのだ。
「・・・寝なくて、良いの?」
「君一人で何処に行くつもりなのかって、聞いてるんだけど」
卑怯だと思う。知っているのに、こっちから言わせようとするなんて。
出来れば付いてきて欲しくはないけれど、恐らく彼は無理矢理にでも付いてくるのだろう。
いつもは面倒だと言って、無理矢理引っ張っていっても、付いてこないのに。
ティルは諦めたようにため息を一つ付く。
「―――・・・ティント、だよ」
そう言った途端、馬鹿じゃないの、と言うようにルックは息を吐き出した。
別に無謀なことをしに行くわけではない。
ただちょっと、様子を見に行くだけだ。敵に囲まれてしまったとしても烈火の紋章があるから問題はない。
一人なら、逃げることだって出来る。
無理矢理ティントに入ってネクロードを探しに行くわけではないのだから、危険はさほどない。
けれども、きっと彼は。
「―――僕も、行く」
そう、迷うこともなく言うのだろう。
今度はティルがため息をつく番だった。
これだから、誰かに気付かれないように細心の注意を払って、しかも夜という時刻を選んで出てきたというのに。
別にルックの実力を見くびっているわけではない。
ただ、武器派のティルとルックでは離ればなれになってしまう可能性が高い。
紋章を唱えている最中に狙われてしまったら最悪だ。
例えそれを正直に言ってもルックは付いてくるのだろう。
ティルは一度だけ視線を左手に落とす。
―――いざと、いうときは。
包帯の下に隠れているものは、今は大人しく形を潜めている。
その下にある存在は出来るだけ知られてはならないと、何度も言い聞かされた。
それでも、有効活用できるものはしないと、勿体ない。
役に立つと知ってしまったからには、使わせてもらう。
「―――・・・いくよ」
風が冷たい。肌を突き刺していくよう。
けれどそれ以上に、背中に刺さる視線が痛い。
何か言い足そうに開かれた口は、そのまま閉じられて、結局何の言葉を発することも出来ないまま。
ただ視線を向けられているだけじゃ、何が言いたいのか、解らないのに。
けれど、何も聞かれないことが今は救いだった。
+ + + + +
舌打ちしたときには既に遅かった。
目の前に現れたこの世ならざる者達の姿に、棍を握る手に力を込める。
後ろでもルックが強く杖を握りしめ、いつでも紋章を使えるように構えているのが解った。
棍を振るおうと構えると、乾いた砂が音を立てた。
確かに足下にあるのは乾いた土だったはずなのに、それは揺れる水面のように波紋をつくり、その中からまた新たに敵が現れる。
どんどん増えていく敵はまるでティル達を嘲笑うかのようにゆっくりとティル達を取り囲むように進む。
囲まれないように、敵の数が少ない方にティルは駆け出す。
それを後押しするように、後ろでルックが呪文を唱えているのが聞こえた。
襲いかかってこようとしたゾンビを、ティルは小柄な体躯を活かして避け、すれ違いざまに一撃与えていく。見た目よりも重い一撃は腐った身体をただの物と変えていく。
踏み込んだ足で高く跳び、そのまま身体を回転させて数体を一気に薙ぎ払う。
向かってくる敵にそのまま突っ込まずに、ティルは横に跳び方向を変える。
その瞬間、それまでティルがいた場所に強い風が吹いた。
魔力を帯びた風は鋭い刃となり、その辺り一帯の敵を蹴散らす。
それと同時にティルは棍を振るい、道を造り出す。
どんどん湧いてくる敵に、ティルは違和感を感じた。
あまりにもゾンビの数が多い。夜だからなのか、それともティル達がティントに向かっているからなのか。
その理由はわからなかったが、そのゾンビの殆どはティル達に傷を負わせることはなく、そのままただの物と化していく。
その殆どはティルの棍捌きによるものだった。
それはティルがルックよりも前を行っている所為だからだと思っていた。
けれど、それが違うと気付いたのは、いつの間にかティルとルックの距離が開いてしまったとき。
―――・・・狙われてる?
ティルは棍を振るい、ティントへと続く道を造っていく。
その途中で前にいる敵だけでなく、後ろにいる敵もティルに向かってきていることに気付いた。
ティルよりもルックの方が近いのに、何故かティルだけを狙っている。
前からだけでなく、後ろからも襲われると言うことは、ティルが敵に取り囲まれると言うこと。
そう、まるで―――ティルとルックを引き離すかのように。
「・・・ッルック!!」
それに気づき、ティルは踵を返しルックの方に駆け寄る。
けれど振り返った先に在るのはゾンビの壁で、ルックの姿は見えない。
それに小さく舌打ちをして、額に意識を向ける。
「我が額に宿りし烈火の紋章よ、我が前に立ちはだかる敵を焼き尽くせ――最後の炎!」
ゴウッを激しい音を立てて燃え上がる炎の中でもだえ苦しむゾンビ達には目もくれず、ティルはルックの方へとさらに加速する。
ゾンビの壁を抜けて見えたルックの背中に、ティルは安堵の息をつく。
けれどそれもつかの間、ルックが紋章を使おうとしているのに気付き、減速した足で強く大地を蹴る。
ルックの視線の先いるのは、ルックの周りを取り囲もうとしているゾンビの群れ。
ルックは瞳を閉じ、右手に宿っている風の紋章に気を集中させる。
だから気付かなかった。
ルックの足下にある異変を。
突如現れた波紋から伸びた手は、ルックの細い足首をしっかりと握りしめた。
それに驚いてルックは紋章に集中させていた気を散らせてしまう。
波紋はさらに広がり、頭がゆっくりと現れる。
それを杖で押し込もうとしたルックに、影が落ちる。
ルックが顔を上げると、直ぐ目の前まで迫ったゾンビの姿があった。
捕まれた足では逃げ出せない。
この距離では紋章を使うことも出来ない。
そう考えたルックは固く瞳を閉じ、杖を握りしめたまま身を強ばらせた。
す、っと風が通った。
ガリ、と何かが抉れるような音がした。
それと同時に杖の先端に何かがぶつかったのか、ルックの手が少しだけ痺れる。
背中から何かにぶつかった。
けれど走った衝撃はそれだけ。背中以外は何処も痛まない。
その事に驚いてルックがゆっくりと瞳を開いていくと、目に入ったのは見慣れた赤。
暗闇でもその色がはっきり解るのは、それほどまでに近くにあるから。
そこから感じられるぬくもりに、ルックは誰かに庇われたのに気付いた。
―――誰か、なんて解りきっている。彼以外に、ルックを護ってくれる者など、ここにはいないのだから。
そしてルックが視線を上げた途端、その翡翠の瞳が大きく開かれた。
珍しく弾んでいる息。顎を伝っていく汗。―――否、汗じゃ、ない。
「―――ティル!?」
確かめようとした彼の顔は半分以上隠されてしまっていた。
顔の半分を覆い隠している右手の下にあるのは、右目。
―――・・・あいつの左目は、何も映さない
シーナの言葉を思い出す。
見えないのは、左目。今覆い隠しているのは、右目。
それを覆い隠している右手の指の隙間から流れているものに気付いて、ルックは青ざめる。
月夜ではっきりと色が解らなくても、右手の包帯の色が変わってしまっていることぐらいは解った。
その包帯の色は、―――今は緋色。
血の、色。
「・・・大丈夫だから、」
「ッそれの何処が大丈夫なのさ!」
「それより、・・・近づいてきてる」
ルックはティルの右手を剥がそうとしたが、ティル自身に止められてしまう。
ティルは癒そうとしたルックを突き放し、ゆらりと立ち上がる。
ぼうっとしている暇はない。この間にもゾンビは距離を縮めてきているのだ。
ティルの言いたいことが解ったルックはティルを傷つけた杖を握り直し、舌打ちをしてから立ち上がる。
舌打ちしたいのは、ティルも同じだった。
―――選りに選って・・・ッ!!
ルックの杖の先、尖っていた部分で右目の瞼を切った。
結構深く切ってしまったのか、流れる血は止まらず、目を開けることすらままならない。
せめて、左目だったら良かった。
元々左目は何も見えていない。だから例え見えなくても痛みがあるだけで、後はいつもと大して変わらない。
けれど、右目だと完全に視界が奪われてしまう。
右目を手で覆ったまま左手で棍を握りしめる。
敵の気配を探ろうとするが、数が多すぎる。
隣からルックが切り裂きを放ったのを感じた。それでも敵の数が減ったようには感じられない。
幾らルックの魔力が強くても、これだけの敵を一人で倒すことは無理だ。その上敵はどんどん増えてくる。夢幻に増える敵を相手に一人で戦うなんて無謀すぎる。
けれど、今の状態のティルでは戦うことは出来ない。それどころか足手まといだ。
「―――・・・・・・ウィルド」
ぽつり、と呟かれたのは名前。
ティルは呟いた途端に右手が熱くなるのを感じた。
<・・・ティル・・・、大丈夫?>
頭の中に響く声。
その未だ高い少年の声はルックの耳には届かない。
ウィルド、と呼んだ少年の問いかけには答えず、ティルは瞳を閉じたまま顔を覆っていた右手を外す。
そして紅く染まってしまった包帯を外すと、その紋章が姿を現す。
緋色の光がかたどるそれは、死神。
「・・・返して欲しいものが、ある―――」
弾む息。さすがに紋章を使いすぎたのだろう、身体を倦怠感が襲う。
それでもルックはその場に倒れることはなかった。
しっかりと握りしめた杖を媒体とし、また魔力を集中させる。
ここで倒れるわけにはいかなかった。
だって、今のティルは何も見えていない。戦えるはずがないのだから。
けれど、ルックは元々接近戦向きではない。近寄られてしまったら、太刀打ちできない。
「切り―――」
「踊る火炎」
放とうとした風は刃となる前に消え去り、代わりに炎が敵を焦がしていく。
後ろから放たれた紋章術に、ルックが振り返る。
「ティル、だいじょ―――」
大丈夫?、と言いかけた唇は、開かれたまま止まる。
視界に映ったその姿に、ルックは戸惑い言葉を失った。
炎に照らされて、少しだけ解るようになった色。
長い黒髪。赤い胴着。頬を伝っていく血。右手にある緋色の紋章。左手にある――炎に照らされて朱になった包帯。
変わらない。何処も変わっていないのに。
青灰色の瞳だけは、そこになかった。
代わりにあるのは、まるで血のような緋色。
まるで、右手に輝く、死に神のように―――