いろいろな想いが、重なり合って。
嬉しくなる。
哀しくなる。
淋しくなる。
切なくなる。
どうしてだろう。
こんなにも、君を
想っているのに―――
W A V E R
朝早く、まだ陽も昇っていない静かな客室の一室。そこにティルはいた。
ティルは窓の縁に寄りかかって、外の景色を眺めていた。
陽の昇っていないこの時間の朝の景色は、ただ白んでくる空しか見えない。
その景色を見つめながら、ティルは窓に手を伸ばし、それを押す。キィ、と小さな音を立てて、窓は簡単に開いた。
開いた窓から入ってくる風は、冷たい。
けれどティルはその風に寒さを覚えながらも、上に羽織る何かを取りに行くことすらせず、少しでも寒さを凌ごうと自分の体を抱きしめ、けれど視線は何かに捕らわれたかのように空を眺めたまま動かない。
ほんの少し部屋の中に吹き込んだ風が、括られていないティルの長い髪を揺らす。
やがて一羽の鳥が窓枠に降り立ち、羽を休める。ティルはその鳥の足に白い物が括られているのを見て、鳥に手をさしのべる。
―――おいで。
口には出さないその誘いに気がついたのか、しかし鳥はティルの手ではなく、その蒼銀の羽を翻してティルの肩に飛び移り、ティルの頬にすり寄る。
その柔らかい羽毛は、ティルにはくすぐったくて、ティルは思わず肩を寄せてしまう。
そんなティルを見つめるのは、ガラス玉のような蒼い瞳。
「・・・お疲れ様」
そう言ってティルが鳥の頭を軽く撫でてやると、鳥はその指に甘えるかのように自分の頭をすり寄せたあと、親愛の証としてティルの指を甘咬みした。
それにティルは小さく笑い、それから漸く鳥の足に括りつけられている物を取り外す。
―――それは、一枚の手紙。
それに簡単に目を通し、ティルは瞳を細める。その間すり寄ってくる鳥の頭を撫でることも忘れない。
―――もう、限界が近い。
始めの一文を読んで、ティルは眉を寄せた。
たった一言だが、それがどういった意味かはわかる。
逆に、他の人には解らないような文でないと危険なのだ。その為に、態と簡潔に、けれど明瞭に書いているのだ。
―――けれど、予想通り力になることは出来るようだ。出来る限りフォローはする。
たったの三文。けれど、ティルはそれに小さく安堵の息をついた。
ティルは肩に鳥を乗せたまま踵を返し、机の上に置かれた小さな紙にペンを走らせる。
―――ありがとう。そっちは任せる。
それだけを書いて、肩に乗っている鳥の足に括り付ける。
「疲れてるだろうけど・・・お願い」
そう言ってもう一度頭を撫でてやると、ちょっとした反抗なのだろうか。鳥は先ほどの甘咬みよりも少し強めにティルの指を咬み、それから窓の外に飛び立った。
ほんの少しだけ姿を現した朝日。
鳥が目指すは、夜明け。そしてそれに寄り添う、夕暮れ。
+ + + + +
少しずつ陽は昇り始めて、人々が目を覚まし、城が機能し始める。
酒場に溜まっていた人たちはそれぞれの部屋か風呂場へと足を運び、レストランは朝食を求めてやってくる人たちで混雑し、畑に水を撒く人もいれば、家畜に餌を与える者もいる。
少しずつ静まりかえっていた城の中に、人々の声が飛び交うようになる。
そんな中、一番賑わうのは城の入り口の一番広いフロアだろう。
戦時中というこの時期に、ほんの少しだけ与えられた休息。それを利用して、フェイは資金稼ぎやアイテム集め、仲間への声掛けをしてくるのだという。
その為に、朝食を済ませたあとに出掛けると言っていたのを、昨日耳にした。
それの見送りに、何人も集まってくるだろう。
けれど、先日のネクロードの件もあってか、ティルが同盟軍の城にいるにもかかわらず、その呼びかけがティルに届くことはなかった。
恐らくゆっくり休めと言うことなのだろう。
その気遣いはありがたい。
けれど、こうも毎日暇を出されると、ティルはどうして良いのか解らなくなる。
本来ティルがこの城に来ているのは、フェイの手助けをする為だ。
遊ぶためではない。
フェイに軍法を教えたり、ともに遠征に行ったり、時に手合わせをしたり。
その為にいるのだというのに、今のティルに与えられるのは暇だけだ。
つまりはすることがない。
仕方なくティルは図書館に通っているのだが、ティルの父であったテオが城に使えていた将軍であったためか、ティルは何度も父に連れられて城に入り、そのたびに書庫で時間をつぶしていたのだ。
その書庫はここの図書館よりも広く、ここにある本の殆どは既に読破済みの物が多い。
多少読んでいない本もあったが、それほど興味を引く物ではなく。
だからティルが借りていく本は既に読んでいる物が多かった。
そしてその殆どが紋章に関する物であった。
これだけ時間があれば借りていた本の一冊や二冊は読み終わるというもの。ただでさえティルは本を読むのが早いのだ。
陽が少しずつ昇り、城が賑わい始めた頃、ティルは机の上に置かれていた本を数冊手にして部屋を出た。
+ + + + +
大きなフロアに出て階段を下りようとしたところで、ティルは足を止めた。
階段の下、まだ人通りの少ない広間に置かれた大きな石版。そしてその前には、いつも通り見慣れた少年の姿がある。
その少年は石版の側の柱に背を預け、本を読んでいた。
その所為で、顔は見えない。
けれど、この城にいる者の殆どは、それがルックであることに直ぐに気がつく。
オリーブグリーンの髪に、緑と白の法衣。
そして石版の前、と言う位置から考えても、他に思いつく人物などいない。
もちろん、ティルにもそれがルックであることに気がついた。
けれど、ルックはよほど本に集中しているのか、ティルには気づいていないようだった。
いつもなら、右手の紋章の気配で直ぐに気がつくというのに。
ティルはそのままルックを見つめながら、階段を下りようとはせず、手摺りの方に近づく。
片手で本を持ち、空いた手の肘を手摺りに置き、頬杖をつく。
心のどこかで、何時気づくのかと期待をして。
きっと気がついたとき、ティルが自分を見つめていたと知ったら、ルックは驚くだろう。その時の顔が見物だと、そう思った。
ほんの少し口元を緩ませる。自然と笑みが浮かんだ。
―――ねぇ・・・
声は出さずに、口だけを動かす。
もちろんのこと、ルックはそのことに気がつかない。
ペラ、とページをめくり、視線は本の文字を追っていく。
ティルは自分に気づいてくれないルックに、少しだけ寂しさを感じてた。
ものの三十秒でもあれば手が届く距離。
けれど、ティルの足は止まってしまっているから、その距離が縮まることはない。
ルックがティルに気づいて、自分から縮めてこない限り。
ティルは、ルックがティルに気づき、顔をこっちに向けてくれるのを待って見た。
けれど、しばらく待ってみても、ルックはティルに気がつかず、静かに本のページをめくっていくだけ。
少しずつ、けれど止まることなく時間は流れていき、少しずつ人が集まってくる。
軍主であるフェイが導く軍の拠点であるこの城は活気があり、人が集まってくれば、自然と賑やかになってくる。
けれどルックはそれにすら顔を上げることはしなかった。
時折ページをめくる手が動くだけで、あとは瞳が本の上を走っていくだけだ。
「・・・・・・ねぇ・・・」
ぽつり、とこぼれ落ちた声。
けれどそれは本当に小さく、フロアの人たちの声にかき消されてしまい、ティル自身ですら聞こえなかった。
そんな声がルックに届くはずもなく。
ティルは少し瞳を伏せた。
頬杖をついていた手は、いつの間にか手摺りの上できつく握られている。
―――怖い、と。
そう思った。
ここから見えるオリーブグリーンの髪は変わらない。
綺麗なのに、どこか強い意志を持った碧の瞳も変わらない。
けれど。
同じくらいだった身長は、もうティルが見上げなくては顔が見えない程、差がついてしまった。
少女のようだった顔つきも、大人らしくなってきて、綺麗だけれど、少年のものだと解る。
細い体躯も、以前よりも筋肉がついたと解る。
同じ『真なる紋章』を持つ身なのに、ルックはこの数年間で成長した。
当たり前だ、ティルと違い、ルックの時間は流れているのだから。
その事実を改めて感じて、ティルは切なくなった。
ほんの少しの距離。
少し歩み寄れば触れられる距離。
けれど、歩み寄らなければ、手を伸ばしても触れることは出来ない距離。
これからも、ティルの時間は止まったまま。
でも、みんな成長していく。そして―――ルックも。
今はまだ小さい距離も、どんどん開いていくのだろうか。
「ねぇ、・・・」
今、ティルが呼びかけても、ルックには届かないように。
だって刻の止まってしまったティルは、もう歩み寄ることは出来ない。
向こうから、歩み寄ってきてくれない限り。
すとん、とティルはその場に座り込む。
まだ陽が昇り始めて間もない所為か、階段はいくらか冷たかったが、ティルはそれを気にせず、手摺りの間からルックを見つめた。
本を胸に抱き、空いている手でもう片方の腕の袖を握りしめる。
寄せられた眉は、どこか苦しそうで。
緩んでいたはずの口元は、いつの間にかきつく噛みしめられていた。
ふと、ルックが顔を上げた。
それと同時にティルも顔を上げる。
自分の存在に気づいたのではないかと、淡い期待を抱いたのかもしれない。
しかし、ルックはティルの存在に気付いたわけではなく、本の文字を追っていた翡翠の瞳は、そのまま真っ直ぐにフロアの入り口の方に向けられた。
ティルもその視線を追って入り口の方を見るとそこにはフェイがいた。フェイの隣にはナナミがいて、ナナミの腕の中にはムクムクがいる。
二人と一匹は笑い合いながら、フロアを歩いてくる。
ルックはそれを見て面倒そうにため息をついてから、本を閉じた。
そして寄りかかっていた柱から背を離し、柱に立てかけてあった杖を手に取ると、フェイの方に歩いていく。
そのことに、ティルは思わず目を見開いた。
ルックはティルには気づかなかったのに、ティルよりも離れた場所にいた――それも人が行き交う中を歩くフェイには気づいたのだ。
そしてフェイもそれに気づいたのか、笑みを浮かべながらルックに向かって手を振る。
ティルは瞳を伏せ、本を両手で抱きかかえながら、立ち上がり、降りるはずだった階段に背を向けて歩き出した。
図書館に行く道は、もう一つある。
少し遠回りになってしまうけれど、それでも、今は階段を下りてフロアを横切る気にはなれなかった。
ティルは少しだけ足を急がせて、少しでも早くその場から立ち去ろうとした。
本来なら、これから出掛けて行くであろう彼らにの一言を掛けるべきだっただろう。
けれど、今のティルにそんなことを言えるほどの余裕はなく、彼らから視線を逸らすことしかできない。
フロアから出て直ぐの廊下で、ティルの足は止まった。
この廊下の先にあるのは訓練所と図書館だけだ。
今この時間はマチルダの騎士達が使う時間で、訓練所に向かうものはいない。
それと同時に、こんな朝早くから図書館に向かう者も滅多にいない。
いたとしても、普通ならフロアの方を通っていくだろう。そっちの方が道が近いし、フェイの見送りも出来る。
だからこの廊下を通る者は、今の時間は全くいない。
その静かな廊下に、フロアからの声が聞こえる。
ティルはその声を聞きながら、左側の壁に寄り添い、壁に肩で寄りかかった。
こつ、と頭に当たった壁は固く、けれどその固さが今のティルにはちょうど良かった。
本を両手で抱きしめたまま、ティルは静かに瞳を閉じた。
それから、長い息を吐いた。
「・・・どうして・・・?」
ぽつ、と溢れた声は、ティルの耳にしか入らない。
けれどそれで十分だった。
ティルが問いかけたいのは、ルックでもなければフェイでもなく、その周りにいた誰かでもない。
「こう(な(る(こ(と(が(、正(し(い(こ(と(な(の(に(・・・!」
ダンッ!と左手を強く握り、拳を壁に叩きつける。
どうして、自分はこんなにも弱いのだろうか。
決意したはずだった。
この想いは、『願い』は、変わらないのだと。
何度も差しのばされた手を振り切って。
こうすることが正しいのだと、これこそが自分の願いだと。
そう、何度も言い聞かせて。
でも、―――――本当は?
「―――・・・・・・違う・・・」
ゆっくりと叩きつけた拳を壁から離す。
ぱら、と散っていく壁の破片。
それを視界の端に入れながら、ティルは俯いたままもう一度、けれど先ほどよりは少し弱く、壁を殴る。
「―――・・・違う」
ダンッ、ともう一度。
壁を殴った左手は、それほど痛くはない。
それよりもっと痛い傷は何度も負った。それに比べたら、こんなの傷とも呼べない。
けれど、寄せられた眉は苦しそうで。
血が滲むのではないかと言うほど、拳は強く握られていて。
奥歯は、ギリッと音をたてるほど強く噛みしめられていて。
「違う・・・、違う、違う、違う・・・ッ!」
ダンッ!!と今までで一番強く壁を殴りつける。
ぱら、と壁の破片が音をたてて落ちていく。
はぁ、と少しだけ弾んだ息。
壁を殴りつけた左手で髪を掻き上げながら、顔を上げる。
ツキ・・・と走った痛みに左手を見ると、いつもなら巻いているはずの包帯を巻いていなかった所為か、掌にはくっきりと爪痕が残っており、そこからは血が流れていた。
よく見れば、壁を殴りつけていた部分も真っ赤に腫れ、所々血が滲んでいる。
それを、ティルは黙ったまま見つめ、やがて何の処置も施さずに力なく腕を下ろす。
力なく背を壁に預け、今度は上を向く。
余計な思考を払うかのように、深く息を吐き出す。
ゆっくりと左手を翳す。
手首を流れていく赤い血に眉を顰めながらも、今度は掌を天井に向け、手の甲を見つめる。
「・・・違う」
本当の『願い』なんて、そんなことどうだって良い。
そんなことを叶えるために、自分はここにいるのではない。
「・・・だって、本当の『願い』は―――」
―――叶えては、いけないのだから。
掌に見えるものは、うっすらと浮かぶ雷鳴の紋章。
その下には何も見えない(。
「・・・・・・ルック・・・」
ねぇ。
気づいて。
気づかないで。
こんなにも―――
「・・・すき・・・、なんだよ―――」
貴方を、想っていることを。
―――ねぇ。
その声が届かないほど。
ほら、こんなにも。
君と僕との距離は、―――遠い。