思い出したんだ。―――大切なことを。
やってしまったと、今更ながらに自分の手を見つめる。
掌に残った深い爪痕からは血が滴り落ち、壁を殴りつけた側面は腫れ上がり、血が滲んでいる。手首には紅い筋がいくつも流れ、真っ白な袖を緋色に染めてしまっている。
もう片方の手はしっかりと図書館から借りた本を抱えているが、このままでは図書館に行くことが出来ない。
図書館に入った途端、図書館を管理しているエミリアに驚かれるだろう。下手をしたら叫ばれてしまうかもしれない。
何より、この手では図書を触ることが出来ない。
貴重な本もあるのだ。それを血で汚してしまうわけにはいかない。
そう思い、壁に背を預けたままため息をつく。
この廊下の先にある医務室に行くべきかと考えたが、直ぐに首を振る。
名医と呼ばれたリュウカンの弟子であるホウアンには直ぐにこの傷がどういう経緯で出来たのか解ってしまうだろう。
そして「一体何があったのか」と訊いてくるにちがない。
それは避けたかった。
図書館は諦めて自室に戻ってしまうのが一番良いのだろうが、今の心境のままであのフロアを通りたくはなかった。
さて、どうしたものか、と考えていた時、ふと人の気配を感じてティルは俯いていた顔を上げる。
それと同時に、トサ、と何かが落ちる音がした。
音のした方に視線を巡らせると、そこにあったのは一目で薬草とわかる草の入った籠。
落ちてしまった衝撃で、籠から数枚薬草が出てしまったらしく、床に散らばっている。
そのまま視線を上げていくと顔を真っ青にした少年の姿が目に入り、ティルは苦笑いを溢す。
―――そう言えば、この先には・・・
医務室があったのだと、再確認して、ティルは少年から瞳を逸らした。
それと同時に左手を隠そうとするが、刻既に遅く。
ティルの血に染まった手を完璧に見てしまったその少年――トウタは、落としてしまった薬草を拾うことも忘れて、その大きな瞳をさらに見開いた。
驚きのあまり半開きになったままの口は、相手を気遣う言葉さえも忘れ。
「・・・ッホウアン先生―――!!!」
廊下の先へと駆けだした少年の背中を見つめながら、ティルは悪化してしまった事態にため息をついた。
+ + + + +
キィン!キン、カン!と言う金属音が、辺り一面に鳴り響く。
いつもこの時間に訓練所を使っているマチルダ騎士団の団員の視線が、訓練所の一角に集まる。
剣を持った手は下ろされたまま、対峙している相手に向けられることはない。
団員達が向けるぼぅ、とした視線は、決して呆れからくるものではない。
憧れに近しいものであり、尊敬にも近いもの。けれど、決してそれだけではない。
繰り出される一打一打は疾い。こうして見ているだけでそう思う程なのだから、対峙している相手はそれを避けるので精一杯だろうと思えば、そうでもなく、それよりも疾い剣捌きを見せる。
どこか剣舞にも似たようなそれに、思わず団員からは感嘆の息が漏れる。
思わず手が止まってしまい、団長達に叱られるかと思えば、団長達もその光景を見つめていた。
「あれでは、さぞかしフリック殿も大変だろうね」
「・・・日に日に成長していくな、彼は・・・」
「君の部下達の手が止まるのも解る、と?」
「お前の部下だってそうだろう」
クス、とカミューが笑うとマイクロトフがどこかむっとしたような顔をして返す。
彼らは自分たちの団員の手が止まっているのを知っていて、それでも注意を促すことはない。
良い剣技を見るのも、技術向上の一手だ。
マチルダ騎士団が認めるほどの腕前を披露する彼らは周りが自分たちを見ているとは露知らず、対峙している相手を強く睨みつける。
フリックは鋭い瞳を向けてくる目の前の青年に冷や汗をかきながら、剣――オデッサを握る手に力を込める。
強く地を蹴り、相手に剣を振り翳す。その瞬間相手は姿勢を低くし、フリックの懐に入ってくる。
そして剣を横凪に振るうが、フリックはそれを軽い身のこなしで後ろに避ける。
相手はそれに舌打ちをし、フリックの頭上から剣を振り下ろす。
フリックは額の前にオデッサを横に構え、それを受ける。
そしてその瞬間、少し上げた右足で相手の軸足になっている足を払う。
「う、わ・・・!?」
けれど相手は直ぐに逆足で体制を整えようとした。しかし、一瞬出来たその隙を、フリックが見逃すはずもなく。
体勢を立て直そうとした相手の剣を握る力が一瞬緩んだのを見て、フリックは相手の剣を弾き、そのまま首にオデッサの剣先を向ける。
トス、と弾かれた剣が地面に刺さる音がした。
「・・・勝負あり、・・・だな?」
少し弾ませたままフリックが言う。
そんなフリックに、相手の青年は、はぁ、と悔しそうにため息をつき、汗に濡れた金の髪を掻き上げる。
「・・・・・・あー・・・良いトコまで行ったのに・・・」
「ひやっとしたぞ?だがまだ少し甘い。もう少し足下に気をつけるべきだな」
少しずつ呼吸を整えながら、フリックはオデッサを腰に刺さっているさやに収める。
青年はそんなフリックを横目で見ながら、弾かれてしまった剣を拾うために踵を返す。
そして二人の手合わせが終わったのを見計らって、カミューが「再開!」と、団員に声を掛けた。
「あ〜・・・青い人にまた負けた・・・」
「青い人って言うな!・・・だいたいオレを指名してきたのはお前だろう、シーナ」
そう言われて青年――シーナは地面に刺さっていた剣――キリンジを引き抜き、手にとって振り返る。
そう、シーナはネクロード討伐から帰ってきて早々酒場に乗り込むと、真っ直ぐにフリックの元に向かったのだ。
またナンパをしに来たのだと思っていたフリックは、目の前にシーナが来たことに瞳を丸くした。
―――頼みが、あるんだ・・・
普段は滅多にしない真摯な瞳を向けられて、フリックは言葉を失った。
けれど直ぐに真っ直ぐにシーナを見据えると、手に持っていたグラスをテーブルの上に置いて「何だ」と尋ねた。
そして次の瞬間、シーナの口から溢れた言葉に、息をのんだ。
―――強く、なりたい。どうしても・・・強くならなきゃいけないんだ・・・!
これほどまでにシーナが何かを強く求めたことがあっただろうか。
コウアンの富豪だったレパントの元に生まれ、何不自由なく育ってきたはずのシーナ。
欲しい物は殆ど手に入り、自由気ままに生きてきたはずのシーナ。
軽い男、と名高いシーナがこんなに強い想いを見せたことがあるだろうか。
少なくとも、今までフリックはこんなシーナは見たことがなかった。
そんなシーナをフリックはもう一度見据えた。
訊きたいことはある。
いきなり何故?と。何故オレなんだ?と。けれど、そんなことはどうでも良かった。
―――手加減は、しないぞ?
その言葉に、シーナは強く頷いた。
それからというもの、毎日二人の手が空いているときに訓練所を使って稽古をしていた。
と言っても二人ともそこまで忙しいわけではない。
近々戦争を仕掛ける、と言う話はあるが、それもまだしばらく先のことで。
時々一軍の将として、またはトランの代表として会議に呼ばれるぐらいのものだ。
元々デスクワークがあまり得意とは言えない二人に回ってくる書類など、そんなに難しいものではなく、フェイが遠征の折に声を掛けなければ、二人は暇なのだ。
普段、酒を飲んだり、ナンパをしている時間を稽古にあてることによって、シーナは目に見えて上達してきた。
もう一度剣を交えようと、シーナがキリンジを握り直すと、フリックが制止の声を掛けた。
「熱心なのは良い。珍しくマジメになるのも良いがな」
「・・・普段俺が不真面目って言いたいのかよ」
「・・・とにかく」
「シカトすんなよ」
シーナが頬を引きつらせる。
そんなシーナにかまうことなく、フリックはため息をつくと、シーナの左腕を指さした。
「まず先に、医務室に行ってこい」
シーナがその言葉に首を傾げながら自分の腕を見ると、二の腕の辺りの服が避け、血が滲んでいた。
恐らくフリックの剣をかわしたつもりが、かわしきれずに掠ってしまったのだろう。
「あ〜・・・この服、高いのに」
「そんな服着てくるなよ!」
仕方なくキリンジを鞘に収めながら、シーナはわざとらしくため息をつく。
「じゃ、行ってくる」と踵を返し、背を向けながら片手を上げると、「ああ」と返事が返ってきた。
それから医務室の方に歩き始めて、けれど直ぐにシーナは足を止めて振り返る。
「あ、忘れてたけど」
「・・・何だ?」
「新しい服の代金ははフリックの財布から、ってことで」
ニ、と笑みを浮かべてから、フリックに背を向けて「よろしく〜」と手を振って、また歩を進める。
後ろから聞こえてきた怒声は、もちろん無視をして。
+ + + + +
医務室には出来るだけ行きたくなかったのだが、トウタに見つかってしまっては仕方がない。
既に一回に響き渡る程の声で叫ばれてしまっているし、怪我をしているティルの左手はしっかりと握られている。
何より、先ほどからずっと涙目でこっちを見ているのだ。
このまま置いていくことなんて、出来ない。
「ホウアン先生〜、薬草つんできました〜!」
カラ、と扉を開けて医務室に入ったトウタの背中を見てから、一度足を止めて左手を見る。
結局こうなってしまったと、俯きながらため息をつく。
少し長めの袖で左手を隠して、怪我が見えないようにして。
・・・とは言っても、既に袖も血で赤く染まってしまっているのだけれども。
もう一度溜め息をはき出してから、トウタに続くようにして医務室の扉を潜る。
入った瞬間目に入ったのは、清潔感あふれる白い壁。
それから、沢山薬品の収まった棚。
その横は白いカーテンで仕切られている。恐らくベッドがあるのだろう。
それから少し離れたところに、テーブル。その上にもいろんな薬品が置かれている。
そして、その前に座る二人の姿。
その姿の片方を見て、ティルは思わず両目を見開いた。
ホウアンの目の前に座っていたのは、シーナだった。
「お帰り、トウタ。今は手が離せないから、いつもの所に置いておいて」
「はい。それから、ティルさんが・・・」
ホウアンはいつものように落ち着き払った様子で、けれど優しい声でトウタに話しかける。
その手には真っ白な包帯がある。
トウタはちら、と言いにくそうにティルの方に視線を向けた。
ティルが医務室に行くのを渋ったことを気にしているのだろう。
「怪我でも?」
「・・・あ、・・・はい・・・」
ホウアンが治療を施しているシーナの刺さるような視線が、痛い。
思わずティルは俯き、左手を自分の後ろに隠す。
その動作を見て、シーナの瞳がさらに鋭くなったのがティルには解った。
ティルはその場に居づらくなって、けれどそれを牽制するかのように右手で左腕を握りしめる。
シーナの視線が、左手に向けられているのを、痛いほど感じる。
「ちょっと待っていてくださいね」と言うホウアンの声が、どこか遠くに感じられた。
そう言えば、シーナも怪我をしているのだろうか。
そうでなければ医務室になんか来ないだろう。
ティルはそれまで俯いていた顔を勢いよく上げ、少し早足でシーナの側まで来る。
しかし、既にシーナの怪我は包帯の下に隠れてしまっていて解らない。
包帯にまで血が滲んではいないから、血は止まっているのだろうけど。
そんなティルの心境を察したのか、ホウアンは「終わりましたよ」と言いながら軽く包帯の上を撫でた。けれど、それにシーナが痛がる様子はない。
「剣の稽古もほどほどにしてくださいね?怪我をしたら元も子もないでしょう?」
「解ってますって」
どうやら軽傷らしい。
ホウアンの言葉とシーナのいつも通りの声を聞いてそう判断したティルは、ほっと安堵の息を溢した。
「良かっ・・・たぁ・・・」
「・・・ティル・・・?」
そんなティルの小さな呟きは、シーナの耳にはしっかりと届いていた。
シーナはその言葉に瞳を見開き、けれど直ぐに瞳を細める。
―――変わって、ない。
小さい頃からテッドやティルと駆け回ることが多かった。
その時は良く葉で切ったり、転んだりして些細な傷を負ったものだ。
けれどその度にティルはシーナの側にしゃがみ込んで訊いてきたのだ。
―――大丈夫?と。
ティルにだって傷はいっぱいあったのに、それなのにまず先にテッドやシーナに声を掛けてくるのだ。
その頃から、変わっていない。
何よりも先に、他人を心配することも、自分のことは、いつも後回しなことも。
すっと黙ったまま視線を動かすと、先程まで隠していた左手がテーブルの上に置かれてた。
袖に隠れて傷口は見えないが、その袖についている緋色は間違いなく血だろう。
シーナはため息を漏らし、その左手首を取ると立ち上がり、代わりにティルを座らせた。
手を引かれたことに驚いたティルを無視して、半ば強制的に座らせると、戸惑いを隠せていないティルがシーナを見上げていた。
「・・・シー、ナ?」
「何が『良かった』だよ」
そんなシーナの低い声にティルはビクリと肩を振るわせる。
そんなティルなどお構いなしに、すっと袖を上げれば、血で赤く染まった左手が姿を現した。
シーナはそれを見て眉根を寄せる。
―――他人の心配より、自分の心配をしろよ。
「ホウアンさん、次はコイツ頼むな」
そっとシーナがティルの手を離すと、ホウアンが「解ってますよ」と返した。
そんなホウアンの目の前に座ったティルは戸惑いを隠せないままシーナを見上げる。
シーナはそんなティルを椅子に押しつけるかのようにティルの両肩に手を置く。けれど、ティルに向けられるその視線は呆れを含んでいる。
そしてホウアンよりもシーナの方に体を傾けていたティルの体を、ホウアンの方に向ける。
今まではティルから離れていくことの多かったシーナが、自らティルに触れてきたことに、ティルは驚きを隠せない。
今向けられている視線は、今まで向けられていた冷たい視線ではない。
「・・・シー、ナ・・・?」
そんなティルの口から溢れた声にシーナが気づかないはずはないのだが、シーナはそれを無視した。
まだ戸惑った視線を向けてくるティルから視線をはずし、ティルの左手を見つめる。
その時、丁度テーブルの上に置かれたティルの手に、ホウアンの手が伸びる。
治療を施すためだったのだろうが、不意に触れられた所為で痛みが走ったのだろう。ティルは声は漏らさなかったが、ほんの少し眉を寄せた。
「すみません。・・・少し、我慢してくださいね」
そう言い、ホウアンはティルの傷を気遣いながら袖を捲っていく。
長い袖に隠されたそれが姿を見せた途端、ホウアンは顔をしかめた。
力なく開かれた左手には指の影が落ちており、はっきりとは見えないが、手首へと流れていくいくつかの血の筋がある。そして白く細い指先の爪には、赤い血が付いている。
傷はそれだけではない。
ホウアンがティルの手を持ち上げたとき、ティルがまた少し顔をしかめた。
よく見れば、傷は掌だけでなく、左手の側面にもあった。
その傷は掌にあった傷とは違い、赤く腫れ、所々滲んでいる。まるで何かで強く擦ったような傷だ。
もちろんその傷は、ティルの後ろにいたシーナにも見えていた。
側面に出来た傷は定かではない(予測は出来る)が、掌の傷は何で出来たのかよくわかる。
掌を強く握りしめ、爪が深く突き刺さったときに出来るものだ。
そう言った傷は、だいたい何かを堪えているときに出来るもの。
シーナがすっとティルの顔に視線を向けると、ティルはどこか淋しそうな瞳をしていた。
そんなティルの顔を見て、シーナの頭には幼い少年の言葉が過ぎる。
―――ティルが言うんだ。『もう二度と失いたくない』って
―――僕は人を失う悲しみを知らない
―――ティルは、そういう悲しみをいっぱい知ってるんだと思う
―――だから・・・お願い、だから・・・
―――傍にいてあげて、と。
そう、少年は願った。
実際、その言葉を口に出して言うことは出来なかったけれど。
―――嫌いに、ならないで・・・―――!
それでティルが悲しい想いをしないのなら。
それでティルを救えるのなら。
ティルが、こんな傷を作らずに済むのなら―――
ティルの肩を掴んでいたシーナの手に少しだけ力が込められる。
ティルはそれを感じて、シーナを見上げ、そして少し驚いて目を瞠る。
―――約束をしたんだ。
それは遠い過去。
けれど、今でも直ぐに思い出せる。
秋にさしかかって、少し風が冷たく感じるようになってきた夕方。
樹に寄りかかり、瞳を閉じ、穏やかに吹く風を体で感じる。
ちらりと視線を動かせば、横に座ったテッドも同じように瞳を閉じて風を感じていた。
少し離れた場所で、ティルが仔猫と戯れていた。
「・・・護りたいな」
テッドが溢した言葉にテッドを見ると、テッドは淋しそうに笑ってティルを見つめていた。
テッドの視線を追ってティルを見ると、ティルの肩に乗った仔猫と足下の親猫の姿が映る。
どう見ても、平和な光景だった。
けれど、シーナにはこの平和が何時までも続かないことは解っていた。
ティルは将軍の息子だし、ティルの父であるテオは、今も戦争に出向いたまま帰ってこない。
無事であることだけは解っているが、それでも戦争が終わらないと安心は出来ない。
きっと、ティルも大人になったら戦地へと出向くのだろう。
今の戦争が終わったとしても、戦争なんて何時起こるかわからないものだ。
大人になったら帝国に遣えると決まっているティルは、戦争が起きたらそこに出向かなくてはならない。
今の平和なんて、直ぐに壊れてしまう。
「・・・うん、護りたい」
テッドの言葉に、シーナは頷く。
そんなシーナに、テッドは小指を差し出した。
「じゃ、約束だな」
平和を護る、なんて大それたことは言わない。
だから、せめて目の前にいる者だけでも。
せめて、自分が大切に想っている者だけでも。
せめて、―――ティルの笑顔だけでも。
差し出された小指に自分の小指を絡めて、シーナは頷く。
「約束だからな」
そのあと、互いに笑い合って、もう一度ティルを見つめた。
仔猫に頬を舐められて、ティルが声を上げて笑う。
その笑顔を護るのだと、―――約束したんだ。
どうしてその約束を忘れていたのか、と今更ながらに思う。
けれど、思い出せただけでも十分だ。
今まで出来なかった分、テッドが出来ない分まで、―――自分が護ればいいのだから。
そう考えながら、シーナはティルの左手を見た。
既に傷は包帯に隠されてしまって見ることは出来ない。
けれど、さっき見た傷はシーナの脳裏にしっかりと焼きついていた。
「さ、終わりましたよ」
「ありがとうございます」
「・・・何があったとは訊きませんが、無理はしないでください。
少なくても、今日は出来るだけ左手は使わないようにしてください」
「・・・・・・はい」
傷を見ても何も訊いてこないホウアンに心の中で感謝し、それと同時に安堵の息をつく。
それからずっと後ろに立ったままのシーナを振り返る。
そして、ティルは言葉を失った。
シーナはティルに向かって、笑みを浮かべていた。
それは決して微笑みとは言えないものだった。
口の端をに、と持ち上げ、それからシーナは言った。
「無理はすんなよ?」
それは、労りの言葉。心配をしていると言う証。
子供のような、『シーナらしい』笑みに、ティルは動くことすら出来なかった。
どれくらい、この笑みを見ていなかったのだろうか。
そんなティルにシーナは背を向け、医務室の扉を開け、外に出る。
そして戸を閉める前に、まだ言葉を発することも出来ないティルに向かって一言だけ投げた。
「じゃ、お大事にな、ティアス」
それは、お互いに笑い合っていた頃に呼んでくれた名前だった。
もう、哀しい顔なんかさせない。
もう、淋しい顔なんかさせない。
もう、二度と傷つけたりしない。
だって、―――約束したから。
あの、平和だった日に。