隠しきれない本音。揺らぐ心。







腕を伸ばして、持っていた本を棚に収める。
そして今度はその隣にあった本を手に取り、机に向かう。

ティルの周りを囲んでいるのは、本がぎっしりと並べられた本棚。
図書館なのだから、本棚がたくさんあるのは当たり前なのだが。

ほんの少し窓から差し込んでくる陽差し。それは既に時間が経って、陽が完全に昇ったことを示している。
その日差しが差し込む暖かい窓際の席。
それがいつもティルが座っている席だ。
窓を開けて本を開けば、太陽の匂いと古びた本の匂いが、ティルの心を落ち着かせてくれる。

ティルは静かに椅子を引き、そこに腰を掛ける。
机の上に本を置き、その傍に頬杖をつき、左手でページを捲る。
その瞬間瞳に映った真っ白い包帯が日の光を反射して目に痛い。

その眩しさから目を細め、けれどティルは包帯から視線を逸らしはしなかった。


―――ティアス、と。


医務室から去るときに、シーナがティルに向けていった言葉。
それは解放戦争以前にティルが親しい者達に呼ばれていた綽名だった。

今となってその名を呼んでくれるのは、フッチとクレオ、宿屋のマリー。それからソニアや父の戦友であった者――最近、同盟軍に入ったばかりのゲオルグくらいなものだ。
もちろん昔はその名を呼んでくれる者は沢山いた。
その中には、少なからず解放戦争の時に命を落としてしまった者もいる。
けれど呼んでくれた者達の中の殆どの者は解放軍時代のティルを知り、『トランの英雄』としてしかティルを見ることが出来なくなっていた。
ティルを見つめるその視線にあるものは『恐怖』や『畏怖』。

シーナは―――そんな人たちの一人だった。
けれど向けられる視線にあるものは、『憎悪』だった。
それは仕方がないことだと、ティル自身も思う。
ティルはシーナの周りにあった大切なものを沢山奪ってしまったのだから。

だから、二度とあの名で呼ばれることはないと。笑みを向けられることはないのだと。そう思っていた。


ティルは本の上に置かれた左手を握りしめる。
少し強く握ると、傷口が開いたのか、痛みが走ったが、そんなことにかまっていられなかった。

ティルは包帯に向けていた視線を落とし、俯く。
頬杖をついていた右手で、左手の甲を覆う。


もう、どうしたらいいのか、・・・解らない。
何をするべきなのか。
何がしたいのか。

シーナにティアスと呼ばれて、笑みを向けられて。

―――嬉しいと、思ってしまった。




「・・・僕、は―――




その呟きが誰かに訊かれることは、なかった。






+ + + + +






結局、図書館で読んだ本では大した成果は上がらなかった。
ティルはまた一冊の本を借りてから、図書館を出る。

ティルは借りている客室に戻り、窓を開け、その傍に椅子を引き寄せ腰掛ける。
窓から入ってくる風がティルの髪を揺らす。
ティルの頬を撫でていく風は穏やかだが、少し湿り気を帯びていた。
夕方頃には雨が降り始めるかもしれない。

その風に誘われるようにティルが空を見上げると、ほぼ真上の位置に、太陽が見えた。
それは今が昼時であることを示している。
しかし、その太陽を覆うかのように、黒く厚い雲がゆったりと流れていく。

ティルは太陽を見つめたまま、眉を顰める。




―――いつか、僕・・・も・・・




ツキン、と胸に痛みが走る。
それは胸が締め付けられているような痛み。

ティルは胸元の服を握りしめ、空から視線を逸らした。

そして一度溜めていた息を吐き出し、膝に置いていた本を開こうとした。
けれど、ティルの手は本の表紙に置かれたまま。
ページを捲ることはおろか、本を開くことすらしていない。

ティルは眉を顰め、苦しそうに瞳を細めながら、本の表紙に置かれた右手を見つめる。


包帯の下に隠された、血のように赤黒い紋章。

今更、それを譲り受けたことを後悔するつもりはない。
今ではそれなりに使いこなせている。以前のように暴走する不安もない。

むしろ今では、これを受け継いだことを、嬉しく思う。
他の紋章では果たせなかった『願い』を、叶えることが出来るのだから。


ざらついた本の表紙の上の右手を見つめている瞳。
その瞳は淋しそうであり、辛そうであり、―――憎んでいるようでもあった。

そんな瞳を向けたまま、ティルは右手を握りしめる。

強く、強く。
強く、強く、強く、強く。
強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く。

今、右手には包帯が巻かれているため、爪が掌に食い込むことはない。
けれど、その包帯を突き抜けて、掌にその想いを刻み込むように、強く、握りしめる。


その右手に、ポタ・・・と、滴が落ちる。
外にある太陽は雲に覆われてはいるものの、まだ雨は降ってはいない。

ポタ、とティルの右手に、もう一度滴が落ちる。

滴の正体は、雨ではない。
それはティルの瞳から頬を伝って落ちてきた―――涙。
それを拭うこともせず、ティルはさらに強く右手を握りしめる。
力を込めすぎて震える拳に、また滴が落ちる。
本の直ぐ横に置かれていた左手も、いつの間にか強く握られていた。


この道を選んだことに、後悔はしていない。
これは他の誰でもない、自分自身で決めたことなのだから。
この選択が間違っているとも思わない。
これが、一番良い選択だと思っている。
これ以外に、ティルの『願い』が叶う選択肢なんて、無かったのだから。


それでも。
それでも、ほんの少しだけ―――やりきれない想いがある。




―――・・・に、」




ポタポタと、落ちていく涙は止まることを知らない。
どんどん溢れていく想いに比例して、どんどん溢れていく涙。
噛みしめた唇から、時折漏れる嗚咽。
ティルは俯いたまま、肩を震わせる。




「・・・た、かっ・・・・・・!」




それは、決して人前では言えない本音。


今、ティルの頭を過ぎっていくのは。

太陽を覆う雲。
久しぶりに向けられたシーナの笑顔。
そして―――決して振り向くことのない、緑の法衣を纏った背中。

何度呼びかけても、振り向かない背中。


これで良かったはずなのに。
間違った選択なんてしてないのに。
後悔なんて、するはずがないのに。


―――どうして、こんなに苦しいのだろう。




<・・・・・・・・・・・・>




ティルの心境を一番知っているウィルドは、何も言わない。
ただ、ウィルドだけには聞こえてくるティルの悲痛な叫びに、眉を顰めることしかできない。




―――ば、に・・・」




それは、誰もが強く願うこと。
決して我が侭なんかじゃない。傲慢なんじゃない。

それでも、ティルにとっては手の届かないもの。




―――そばに・・・、いたかった・・・




誰もいないこの部屋で、ティルのその呟きを聞いた者はいない。
ただ、ウィルドだけが、瞳を閉ざしたまま、ティルの呟きを聞かなかったことにした。


―――だから言ったのに。


そう言おうとしてウィルドは口を開き、けれど直ぐに閉じた。
そんなこと、ティルには言えなかった。
それすらも、ティルは解っているだろうから。






+ + + + +






気を紛らそうとして、ティルは酒場に向かった。

今日の自分は、あまりにも感情的になっている。
いつもはこんなに感情的になることはない。


それは解放戦争時代に身についたもので、考えを悟られないようにするためのもの。
軍主である以上、感情的になって行動することは、多くの死と繋がったからだ。
笑うことはあっても、怒りや悲しみを表に出してはいけない。

解放戦争が終わった後でも、ティルはそれを利用している。
正しく言うのなら、既に染みついてしまって、なかなか直せないのだ。
けれど、それで良いとティルは思っていた。

自分の感情を優先させること。それでは『望み』は叶わない。
多くを望むのであれば、必ずどこかで妥協しなくてはならない。
けれど感情があるとその妥協ができなくなるのだ。
先ほどの自分みたいに、未練たらしく縋り付いてしまうから。


少し気が紛れれば、きっといつものように冷静になれる。
気を紛らわせるにはアルコールを取るのが一番良いと思った。
元々あまり酔うことがないから、酔ってさらに感情的になることはないだろう。

そう考えて酒場へ向かったのだが、一階のフロアに出たところで、丁度遠征から帰ってきたフェイ達を見かけた。

ティルが昼間に予想したとおり、陽が沈むのとほぼ同時に降り出した雨でずぶ濡れになってしまったのだろう。フロアに入って直ぐのところでタオルで体を拭いていた。

ティルは階段の上で足を止め、黙ったままその光景を見つめた。
距離が離れているため、声は聞こえてこない。けれど、その雰囲気だけは伝わってくる。

フェイが髪についた滴を取り払う為に、頭を振るう。
その滴は辺りに飛び散っていき、周りはそれを避けようとフェイから離れていく。
けれど、その前にナナミが自分のタオルをフェイの頭に被せ、フェイの髪を拭いていく。
ナナミに怒られたのか、フェイは自分のタオルを握りしめたまま気まずそうな顔をしている。

そんなフェイにルックが冷たい一言でも言ったのだろうか。
フェイが口ではルックに敵わないと解っているのに、ルックに食ってかかる。
それを見て、周りが笑った。


その様子を眉根を寄せながら見つめ、ティルは階段の手摺りの上で手を握りしめた。

あそこに、ティルが入っていける雰囲気はない。
あまりにもフェイやルック達と今居る自分との距離が遠く感じる。

ティルはふる、と頭を振るい、そんな考えを吹き飛ばす。
そう言う考えが感情的になっている証拠なのだ。
きっといつもの自分なら、くすくすと笑いながら階段を下りて、拭くのを手伝ったりしただろう。

ティルはそう考えて、出来るだけの笑みを浮かべながら階段を下りた。
あたかもその光景を見て面白がっているかのように。

それに気がついて、フェイが顔を上げる。




「あ、ティルさん!!」




その言葉に、全員の視線がティルに向けられる。
中でもナナミの視線が痛い。
以前、軍主とはどうあるべきかをフェイに説いたときから、ナナミはティルに警戒している。
それにティルは苦笑いを浮かべるしかない。




「お帰り。お疲れ様」

「ティルさん、体調は大丈夫なんですか?」

「前から言ってるけど、大丈夫だよ。それより・・・君の方が風邪を引いてしまいそうだけど?」

「・・・あ」

「早く部屋に戻った方が良い。フェイだけじゃなくて、皆も」




ね?と問いかけると、フェイは「そうですね」と頷いた。
ティルが少し視線を動かすと、頭飾りをはずしたフッチに近づき、まだ濡れたままの髪に被せられているタオルで髪を拭いてやる。




「ぅわ・・・、え?ティアスさん!?」

「フッチも。風邪を引くよ?早く暖炉に当たるか、風呂にはいるかしたほうが良い」

「え、あ、はい・・・」

「ビクトールは風邪を引かないそうだよね」

「・・・そりゃ、どういう意味だ」

「さあ?」




フッチの髪を拭く手を止めることなく、ティルは言葉を紡ぐ。
始めは慌てたフッチだったが、今では大人しくティルにされるがままになっている。
その間中、ティルは自分に向けられる視線に気づいていながら、決してその方を見ようとはしない。

フッチの髪があらかた乾いてくると、ティルは手を止め、タオルをフッチに手渡す。
もちろん、もう一度「早く部屋に戻りなね」と念を押して。

それから視線をルックに向ける。
けれど、直ぐにルックの視線とかち合ってしまい、直ぐに視線を床に落とす。

フッチの髪を拭いている間、ティルに視線を向けていたのはルックだった。
ルックは何も言わず、ティルがフェイに声を掛けたときからずっとティルを見ている。

その視線が、ティルには怖かった。
また、感情的な自分が出てきてしまいそうで。




「じゃ、今日はここで解散って事で」

「ほらほら、フェイ、早く部屋に戻るよ!」

「おう、風邪引くなよ!」

「あ、ティアスさん、ありがとうございましたっ」

「どういたしまして。フッチも暖かくしてね?」

「はいっ!」




フェイが解散の声を掛けると、それぞれに散っていく。
フェイは困った顔をしながら、心配性の姉に引きづられていく。
そんな二人に、ビクトールが声を掛け、手を振る。
フッチは丁寧にも髪を拭いてくれたティルに感謝を述べ、ティルはそれに笑みを返す。

そしてフッチが自分の部屋の方に駆けていき、ビクトールもティルに背を向ける。
そのビクトールを、ティルが引き留めた。




「あ、ビクトール、ちょっと良い?」

「ん?何だ?」

「最近部屋で本ばっかり読んでたから、ちょっと疲れちゃって。
気晴らしにこれから飲もうと思うんだけど、どう?」




ティルがそう言うと、ビクトールは少し驚いたような顔をして、けれど直ぐに笑みを浮かべた。

ビクトールは元々毎日酒場に通っているような人間だ。このような誘いを断るはずがない。




「良いぜ?冷えた体も温まるしな。
しかし・・・ティルに誘われるとは思ってみなかったな。」

「僕はあまり飲まないからね」

「・・・弱いのか?」

「さあね?」

「じゃ、フリックも誘って飲み比べでもすっか!」

「良いけど、先に着替えてきなよ。いくら体を鍛えていても風邪引くよ」




ビクトールと会話を弾ませながら、ティルはフロアから離れていく。

フロアに残ったのは、ルックだけになる。
ルックはティルのその姿が見えなくなるまで、ずっとその背を視線で追う。
いくら視線を向けていても、それに気づいていても、ティルは振り返らない。
それがティルに拒絶されているようにルックは感じた。

ぽた、と足下に滴が落ちる。
濡れたままの髪が頬や首に張り付いて気持ち悪い。
それなのに、ルックはタオルで髪を拭こうとはしなかった。

ティルが姿を現すまでは拭いていたそのタオルは、先程からずっと握られたままだ。




「・・・・・・どうして・・・」




ルックはもう、いつティルと最後に会話を交わしたのか、解らなくなっていた。






もう、迷わないと決めたんだ。

もう、縋らないと。


―――だから言ったのに。

その言葉が、届かないほどに。


なのに、―――こんなにも苦しいのは、何故?










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