お願いだから、これ以上惑わさないで。







冷たい風の通り道である階段の前。
時折冷たい風が頬を撫でていく中、ティルは身動きせずにルックの腕の中に収まっていた。

ティルを抱きしめるルックの力はそこまで強くはない。
もともとルックは非力な方だ。ティルがその気になれば、直ぐに抜け出すことは出来る。
それなのに、押し返そうともしないのは、ティルに離れる気がないからだ。

離れなくてはいけない。これ以上、この温もりの中にいてはいけない。
それは解っているのに、ルックの胸元を押して離れようとしていた手は、力も無く垂れ下がっている。




「・・・ねぇ、ルック・・・」




ティルの声は落ち着いている。それは、誰かを慰めるように優しい。
けれど、その声に応えるものは何もない。

ルックの顔は、ティルの肩口にあってティルが見ることは出来ない。
それが解っているから、ルックが見られたくないと解っているから、ティルも見ようとはしない。ルックの方に、視線を向けることもない。
だから、ティルが見つめるのは、ルックの法衣だけ。

それでも、解ってしまう。




―――・・・怖い、の・・・?」




ただ抱きしめられているだけでもそう思ってしまったのは、ルックの身体が震えていたから。

ルックはその言葉に応えるかのように、ティルをさらに強く抱きしめる。

けれど、ティルは決してそれに応えようとはしない。
ただ、抱きしめられているだけで、抱きしめ返そうとはしない。
本当なら、抱きしめ返しすべきなのだろう。

今、ルックが何を恐れているのか、ティルには何となく予想が出来ていた。
知っているからこそ、本当は抱きしめ返してやるべきだと解っている。

けれど、ティルにはそれが出来ない。
抱きしめ返す悦びを知ってしまったら、今度こそルックから離れられなくなる。




「ルック・・・」




相変わらず、ルックからの返事はない。
しかし、ティルが言おうとしていることが解っているかのように、ティルの肩口で頭を振るう。




「・・・離して」




ふる、とルックが頭を振る。
ティルの首筋に当たる髪が、ルックの意志をティルに伝える。
それと同時に強まった身体を抱きしめる力に、ティルはまるで子供のようだと思った。




「・・・ルック」

「・・・・・・」

「・・・ねぇ、」

「嫌だ」

「・・・・・・」

「嫌だ」




やっと返ってきた言葉は、拒否。
それも予想できていたティルは、溜め息一つ漏らすことなく、ただ、淋しそうに瞳を伏せた。

口を開こうとして、何かを言いかけて、けれど直ぐに閉じる。
もう一度それを繰り返して、ティルは目を閉じる。

これは、言わなくてはならないこと。
そう、自分に言い聞かせてから、瞳を開く。

きっと、自分も辛そうな顔をしているのだろう。
そう思いながら、言うのを躊躇っていた言葉を口にする。




「・・・ルックが欲しいのは、何?」




ぴく、とルックの身体が一度だけ震える。
それがハッキリと伝わってきて、ティルは一瞬だけその先の言葉を口にするのを躊躇う。
辛くて、苦しくて唇を噛みしめて。でも、この苦しみを感じているのが自分だけでないことに、少しだけ悦びを感じて。




「言葉が欲しい?それとも態度で表して欲しい?
『離れていかないよ』って言って、抱きしめてあげればそれで満足?」




そんなこと、言ってやるつもりも、するつもりもないくせに。
そう心の中で自分に悪態をつく。




「それで満足するなら、いくらでもやってあげる。・・・でも―――




そう言って、ティルはルックの髪に手を伸ばす。
子供をあやすようにその髪を梳いてやれば、ルックの顔が上がる。
漸く見ることが出来たルックの顔は、苦しそうに顰められていた。
そして、ルックと瞳と視線が交わった瞬間、ティルは一番残酷な言葉を吐く。






「ごめん」






それは、何に対する謝罪だったのだろう。

ルックの願いを踏みにじったことに対してだろうか。
ルックが恐れている事を知っていて、敢えて突き放そうとすることに対してだろうか。
それとも―――求められているのを知っているにもかかわらず、ルックの想いに応えられないことに対してだろうか。

もしかしたら、全部かもしれない。
ルックが、そのそのティルの言葉をどのように受け止めたのか、ティルには解らない。
けれど、その見開かれた瞳が、ティルに突き放された痛みを物語っている。




「僕は・・・ルックがどんなに手を伸ばしていようと、その手を取ることは出来ない」




それはルックだけではなく、自分自身にも言い聞かせる言葉。
もう、この手を取ってはならないのだと。
この温もりを望んではいけないのだと。

ルックから少しずつ離れながら、そう自分に言い聞かせる。




「・・・僕は・・・!」

「僕は、ルックの願いを叶えてあげることは出来ないよ」




ルックの言葉を奪って、ティルが言う。
ルックから視線を逸らしたくなる自分を押さえ込んで、真っ直ぐにルックを見つめる。

ルックは眉根を寄せながら、奥歯を噛みしめる。
握りしめた掌に、爪が突き刺さり、血が流れる。
けれど、そんな痛みを感じている余裕すら今のルックにはない。




「・・・なら・・・!なら、どうして・・・あの時僕を受け入れたりしたんだよっ!!」




その言葉に、ティルは眉を寄せた。
ルックから視線をはずして俯く。
その苦しみを表すかのように、胸元を握りしめる。


本の少しでも、ルックが救われればいいと、思っていた。
知ってしまった事から、少しでも目を背けることが出来れば、楽になれると思っていた。
その苦しみを、悲しみを、激情を何かにぶつければ、楽になれるのだと。

確かにあの時は楽になったのかもしれない。
今のルックを追いつめているのは、別のことなのだから。

けれど、ティルがそう思ってやったことが、今のルックを苦しめている。

でも、他にどうすればいいのか、解らなかった。
他に、どうしたらルックを助けられたのか、解らない。

ルックを拒絶すれば良かった?
「人間じゃない」と、そう言ってやれば良かった?
そうしたらもうルックは二度とティルには近づくことはなかっただろう。

今のルックが望むとおり、受け入れなければ。ルックを拒絶していたなら。
今、ルックが苦しむことはなかったかもしれない。
こんなにもティルの心が揺さぶられることはなかったかもしれない。

けれど、そんなこと―――




―――・・・きる、わけ・・・ない・・・。・・・そんな、こと・・・出来るわけ・・・!」




ばっ、っとティルが顔を上げた。
そのティルの顔を見て、ルックは目を瞠る。

ぽた、ぽた、・・・、とティルの頬を流れていった物が、ティルの胴着に小さなシミを作っていく。
それなのに、ティルの瞳はキッ、とルックを睨みつけている。

こんな表情のティルを、ルックは見たことがない。
こんなに、感情を露わにしている、ティルを。




「・・・ルックは、僕にどうして欲しかったの?
僕がルックを拒絶していてれば良かったの?」

―――!?」

「受け入れられないって、そう言えば良かったの?」

「・・・ちがっ・・・!」

「じゃあ、僕は見過ごせば良かったの?」

「・・・っ、僕は・・・!」

「苦しんでいるルックを見て、辛い思いをしているルックを見て、放っておけば良かったの?
僕に向かって伸ばされた手を、振り払えば良かったの!?」

「ちがう!そうじゃなくて・・・!」

「じゃあ、どうすれば良かったの!?」




息を切らしながら、ティルは半ば叫ぶように言う。
その瞳からは相変わらず涙が溢れているのに、ティルの瞳は鋭さを増していく。
こんな感情的なティルをあまり見たことがないルックは、そんなティルの剣幕に言葉を失う。
びくっ、とティルの声に身体を震わせたルックを見て、ティルは深く息を吐き出す。




―――僕は、ルックが考えてる『ティル』とは違うんだよ」

「・・・?それは、どういう・・・?」

「僕だって、『人間』なんだよ」

「・・・そんなこと、わかって・・・」

「ルックは解ってない」




「解っている」と言いかけたルックの言葉をティルは遮って否定する。

ギリ、っとティルは左手を握りしめる。
真っ直ぐにルックを見つめるその青灰色の瞳は、どこか悲しみを訴えていた。




「・・・僕にだって、感情があるんだよ」

「・・・・・・」

「目の前で苦しんでいるルックを見過ごす事なんて出来ない。
僕に向かって伸ばされた手を振り払うことなんて、・・・出来ない。
まして、ルックを拒絶する事なんて・・・」




出来るはずが、ない。
こんなにも、ルックが好きなんだから。
こんなにも、ルックを傷つけるのを、・・・恐れているのだから。




「・・・ルックが、何を望んでいるのか・・・分からない訳じゃない」

「・・・・・・」

「僕はそれを受け入れることは出来ない。けれど、ルックを拒絶することも出来ない」




だから、こんなにも心が鬩ぎ合う。

ルックの願いを叶えたいのに、受け入れたいのに。
けれど、受け入れることは出来ない。受け入れてはいけない。
だからといって、傷つけることも、側を離れていくことも出来ない。

そんな曖昧な気持ちでいるからこそ、ルックを傷つける。

けれど。




「・・・ねぇ、ルック」

「・・・・・・」

「君の中にいる『ティル』は、一体どんな人?」

「・・・っ、・・・」

「強くて、優しくて、ルックを優しく抱きしめてくれて?」

「・・・が、う・・・」

「ルックを受け入れてくれて、ルックの欲しい言葉を言ってくれて?」

「ちがう・・・!」

「ルックの望むことを、全て叶えてくれる人?」

―――・・・っ、・・・!」

「・・・じゃあ、―――『僕』は?」




ティルだって、苦しんでいる。

自分の心を偽って、迷って、哀しんで。
そうして、今のティルのがいるのに。




「『今の僕』を、無視しないで・・・」

「・・・・・・っ、」

「『僕の心』を無視しないで」

「・・・・・・!」

「君の中の『ティル』を押しつけないで・・・!」

「・・・ティル・・・」




これ以上、心を揺るがさないで。

離れられなくなってしまう。
決心が揺らいでしまう。
一番恐れていたことが、起こってしまう。

それだけは、嫌なのに。




「お願いだから、もうこれ以上・・・僕の心を惑わさないで・・・!」




だって、決心したんだ。
そう、願ってしまったんだ。

その為に、色んな物を犠牲にしてきたんだ。

今更、引き返す事なんて出来ない。
今更、君の手を取る事なんて出来ない。
今更、この想いを打ち明けることなど、―――出来るはずがない。


ぽた、とまた溢れてきた涙を見せないように、ティルは両手で顔を覆う。
ルックの視線から少しでも逃れるように俯く。
下ろしていた髪がカーテンのようにティルの顔を隠す。




「・・・ティル―――




そんなティルにルックが一歩近づく。
そっと震える肩に手を伸ばそうとして―――けれど直ぐに引っ込めた。


怖かった。ティルに拒絶されるのが。
怖かった。ティルを壊してしまいそうで。
怖かった。―――また、ティルの気持ちを無視してしまいそうで。

元々ティルはあまり自分を大切にしない。
だから、今までは自分の気持ちよりも先に相手の気持ちを優先してきた。

だから今までティルの願い事なんてあまり聞いたことがなかった。
まして、こんなに感情的になるティルなんて。

そう考えて、やっと気づく。

ティルは今まで、感情的になることはほとんど無かった。
何かが欲しい、と誰かに望むことも、何がしたいと、願いを誰かに話すことも。
では、その望みは、願いはどこに行ったのだろう。

無欲な人間なんていない。
欲の少ない人はいても、何も欲のない人など、いない。
もちろんティルも、無欲ではない。

今までティルが望みや願いを口にしなかったのは、それを押し隠していたから。


突然家を追われ、生まれ親しんだ街を離れ、突然解放軍軍主という責務を負わされて。
家族とも言える人を亡くし、親を敵に回し、親友も失って。

それでも、誰かに想いをぶつけることはなかった。

ティルが家を追われたのは、十四歳の頃。丁度、多感な年頃。
それなのに、色んな事を堪え忍んできたのだ。

それに比べて、自分は何をしているのだろう。

子供のように、必死にティルに助けを求め、手を伸ばして。
それを振り払われたら、それを嘆いて。
ティルの気持ちも考えずに、色んな事を求めて。




―――・・・馬鹿みたい・・・、じゃないか」




考えれば、直ぐに解る。
否、考えなくとも、解っていたはずだった。

ティルがどれだけ自分を抑えてきたのかも、どれだけ傷ついてきたのかも。

あの夜、ルックを受け入れてくれたとき、どのくらい勇気が要ったことか。

次の日にティルを見て、解っていたはずだった。
痛かったはずだと。
辛かったはずだと。
逃げたかったはずだと。
それでも、ティルは受け入れてくれた。
ルックが欲しい言葉をくれて、辛いのを堪えて、何度も名前を呼んでくれて。

それなのに、ルックはティルに何をしてあげられただろうか。




―――ごめん・・・」




今、この手を伸ばして良いはずがない。
これ以上、ティルに何を求めようというのだ。
そんな資格が、今の自分にあるはずがない。あって良いはずがない。




「ごめん・・・」




本当は、ティルこそが救いの手を求めるべきなのに。
それを無視して、ティルに救いを求めて。




「・・・ごめん」




この言葉以外に、何を言ったらいいのか解らない。
だってこんな時でもティルは、ルックに何も求めないから。




「・・・本当に、ごめん・・・」




カツン、と言う音をたてて、ルックが後ずさる。
ティルから少し離れて、それから風に念じる。
風は直ぐにルックの思いに答えてくれる。
ティルを傷つけないように、ルックの身体を囲う。




「ごめん・・・」




その言葉と同時に、ルックの姿はそこから消えた。

ルックの魔力が残滓として残り、ティルの頬を撫でていく。




「・・・違う」




ゆっくりとティルは顔を上げて、先程までルックのいた場所を見つめる。
そして力が抜けたようにその場に座り込む。




「違う・・・」




ぽた、と冷たい床の上に小さな雫が落ちる。
未だその雫を流し続ける瞳はどこか虚ろで、ただただルックのいた虚空を見つめるだけだ。




「違う、違うの、・・・ごめん、ごめんなさい・・・!」




本当に、謝らなければいけないのは、自分の方なのに。
何一つ本当の姿を見せようとしない、自分の方が。




「ごめんなさい・・・!!」




その声は静かな回廊を吹き抜けていく風にさらわれて、誰かに耳に届くことはなかった。






揺れる、揺れる、この想い。

この想いだけは、知られてはいけないのだから。


だから、手を伸ばしたりしない。

誰かに救いを求めたりしない。

支えを求めたりしない。


だって、誰かの傍にいたら。

この想いは、溢れだしてしまいそうになるから。











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